蜜蜂と遠雷 (下) / 恩田陸
46
それは、塵にとってはよく知っているタイプの人間だった。農家や園芸家など、自然科学に従事する人たち、特に植物を相手にしている人々に共通するのは気の遠くなるほどの辛抱強さである。自然界が相手では、人間ができることなどたいしたことではない。努力してもどうにもならないことはあまりにも多く、同時に日々手を動かしてやらなければならないことは大量にある。見返りの保証されないことにコツコツと手間暇を積み上げる。そんな時間を過ごすうちに、彼らはある種の諦観を身に付け、それぞれが独特の運命論めいたものを持つようになる。
塵と一緒に、各地のピアノを回ってレッスンをしているうちに (当然、それらの人々は父と交友のある、自然科学系の学者や農家が多かった)ユウジ先生も似たようなかんそうを漏らしたことがある。
もしかすると、音楽というのはこういうものかもしれないね。
先生の呟きが蘇る。
毎日の暮らしの中で水をやり続ける。それは、暮らしの一部であり、生活の行為に組みこまれている。雨の音や風の温度を感じつつ、それに合わせて作業も変わる。
ある日、思いもかけない開花があり、収穫がある。どんな花を咲かせ、実をつけるのかは、誰にも分からない。それは人智を超えたギフトでしかない。
音楽は行為だ。習慣だ。耳を澄ませばそこにいつも音楽が満ちているー
67
(塵には、編集能力があると、ナサニエルは感じる)
リサイタルなりなんなり、ライブステージというのは、それぞれ1枚のアルバムを編むようなもので、他人の曲であり、様々な時代の曲であっても、自分の内面に引き寄せ、曲を介し、プログラムを介しておのれの世界観を示さなければならない。彼はもうそれができている。
メモ : “編集” とは何か、ということをこの文に見た。
74
この、呼吸するように自然な、それでいて全くためらいも破綻もない表現力はどうやって身につけたものなのだろう。彼の演奏を聴いていると、他のコンテスタントとは根本的に何かが異なるのを感じる。違和感と言ってもいいくらいの違いだ。皆が譜面を再現し、譜面の中に埋もれているものを弾こうとしているのに、彼の場合は違う。
むしろ、譜面を消し去ろうとしているかのようなー
ふと、そんな表現が浮かんだ。
譜面を消す。それはどういうことだろう。作曲家にとって、音楽家にとって。
剥き出しの、生まれたままの音楽を舞台の上に出現せしめるー
一瞬、何かをつかみかけたような気がした。
83
プロとアマの音の違いは、そこに含まれる情報量の差だ。
一音一音にぎっしりと哲学や世界観のようなものが詰めこまれ、なおかつみずみずしい。それらは固まっているのではなく、常に音の水面下ではマグマのように熱く流動的な想念が鼓動している。音楽それ自体が有機体のように「生きて」いる。
83
もはや、彼女の演奏に対してテクニック云々を気にする者はいないだろう。技術が音楽を構成するピースのひとつに過ぎないことを思い知らされる。
124
「やっぱり音楽は宇宙の秩序なのかしら。音楽と数学って、明らかに親和性があるものね。マーくんもいいでしょ、理科系の成績」
メモ : もちろん人によると思うのだが、私のピアノの先生も数学が得意。。
184
曲を仕上げていく作業は、なんとなく家の掃除に似ている。
練習していると、いつもマサルはそう思う。
(中略)
常に家全体を綺麗にしておくのは難しい。
(中略)
186
目立たない場所だけど、念入りに掃除をしておきたい箇所も分かってくる。お客様が何かの拍子に見かけたら、「ほう、こんなところまで目配りがきいているんだ」と感心してくれる場所も把握している。
東の廊下の窓から射し込む朝日は、窓辺に飾った花をこの上なく美しく見せてくれることにも気付いた。
やがて、その日はやってくる。意識しなくても、隅々まで手が行き届いて、屋敷が生来の美しい姿を現す日。
周囲の景色の変化や、季節ごとに必要な対応も理解している。
この屋敷は自分のもの。自分の一部。庭の草木のいっぽんいっぽんまで覚えているし、目を閉じれば今どんなふうに揺れているのかも鮮明に浮かぶ。
そんな日がやってくるのだ。
(中略)
曲が身体の隅々まで行き渡り、漲り、自分とぴったり重なったと思う時。この段階まで来れば、全身のどこを押しても、メロディが溢れ出してきそうだ。それは、とてつもなく幸福な瞬間だ。もはやどう弾いても自分が曲の一部になっているのだと感じられる瞬間は。
【写真でも】
216
「だけど、そもそも我々は何かを殺生しなくては生きていけないという矛盾した存在なんだ。我々の生存の基本となる、食べること自体がそうだろう。食べるという行為の楽しさは、罪深さと紙一重だ。僕は、野活けをする時に、いつも後ろめたさや罪深さを感じているよ。だから、活けた一瞬を最上のものにするよう努力している」
272
『分からない。だけど、音楽は本能だもの。鳥は世界に一羽だけだとしても、歌うでしょう。それと同じじゃない?』
272
『うん。音楽が本能だもの。おねえさんもそう。僕らは音楽が本能なんだ。だから歌わずにはいられない。おねえさんだって、世界にたった一人きりでもピアノの前に座ると思う』
303
メモ : 本当か分からないが、interesting theory
かつては歌というものは、記憶のためのものだったのだろう。叙事詩と呼ばれる、歴史を残すための記録代わりに歌い継がれてきたものに違いない。だが、やがてそれは変質してゆくー「その時何が起きたのか」ではなく、「その時何を感じたか」が歌われるようになったのだ。人間がつかのまの生のあいだに体験する、普遍の感情、普遍の心情を。
ショパンのバラードには、幼い頃の感情、わらべうたを歌う時に感じる、遺伝子に刷り込まれたさみしさが含まれているような気がする。
そしてそれは、今あたしが感じているさみしさなのだー人としてこの世に生まれ落ちた瞬間から誰もが持っているさみしさ。誰もが逃れられない感情。
424
しかし、ごく自然に、「あたしだったらどう弾くかな」と思ったのは、本当に久しぶりのことだったのだ。
音楽を作る。自分の中に構築する。
489
降り注ぐ光。ゆったりと蠢く雲。
水平線でチラチラと揺れる三角のオレンジの群れ。
なんだろう。世界に満ちている、この濃密な何か。
少年は目を開き、ゆっくりと周囲を見回す。
この、命の気配。命の予感。これを人は音楽と呼んできたのではないだろうか。恐らくこれこそが、音楽というものの真の姿なのではなかろうか。
感想 :
「蜜蜂と遠雷」、あまり文体が好きではなかったのだが、下巻には書き残したい文がいくつかあった。逆になぜ私はこの文体が好きではなかったんだろう。「傲慢と善良」(違う作家なのに、奇しくも題の語呂が似ている。) も、そうだった。「蜜蜂と遠雷」には、コピーライティングだったり、広告っぽさを感じる文が多かった。もちろん、私の個人的な意見でしかないのだが。「傲慢と善良」には、ツイッターで “辛口だけど真実”としてバズっているツイートっぽい文が多かった。 もちろん、ここで書いたのは、”そう思わなかった文 (これも個人的に)” ということなのだが…
傲慢と善良 / 辻村深月
87
婚活で多くの相手を見続けた結果、心が麻痺していた。相手を「人」として見られなくなっていく。条件のラベルをつけたリストの中から、設定や背景だけを抽出して、無遠慮に品定めするような目で相手を見ていることに自分で気づくと、息苦しくなった。
96
「だって、あんなのポーズでしょ?そうやって行こうかどうしようか迷ってる素振りは見せても結局立ち上がらないし、子どもにだってどう接していいかわかんない感じだったじゃない。」
110
婚活の最初では、肝心なのは会うことの方で、その時点から相手に自分を理解してもらうことの方ではない。最初の段階から相手に自分の個性や魅力を受け入れてもらいたい、理解してもらえると信じている時点で理想に縛られている。
128
(婚活がうまくいく人とうまくいかない人の差って何ですか、という質問に対して)
「うまくいくのは、自分が欲しいものがちゃんとわかっている人です。自分の生活を今後どうしていきたいかが見えている人。ビジョンのある人」
朝井リョウの解説より
499
自分の意思によるビジョンを掲げるのではなく、不正解を避け続ける減点法の人生。その人生を送っているには、不正解なわけではないので、取り立てて明確な不満も生まれない。だがその状態に慣れると、自分が何を不満に思うのかというアンテナまでも鈍っていく。不正解でもこれをしたい、という推進の意思を失う。