norika_blue

1999年生まれ

Quotes, musings (5)

f:id:i_call_you_eden:20200524222710j:image

(From the balcony of Jan and David's house) 

 

不思議な羅針盤 / 梨木香歩


このエッセイは本当に原文を読んでほしい…  I have each word to my heart. 繊細で凛としていて真摯な言葉の数々。読むたびに、生きることに対して自分がどんな姿勢と目線を持っていたいかについて考えさせられる。

 




・生きていくことにためらいがないのだ。

 



 


・別に有名なスポットでも何でもないのだが、ああ、ここはすてき、と思う場所がある。林の中に、そこだけぽかんと陽の光が当たっているような場所。広葉樹の若葉が、天蓋のように空を覆っているような場所。異国で迷って路地を入っていくと、思いもかけない中庭を見つける。涼しい風が吹いて、ベンチがあり、行きずりの人のためにも開かれている。(中略)

町中のあちこちに、日本中のあちこちに、世界中のあちこちに、そういう場所があることを覚えている。心が本当に疲れているときは、砂漠の中のオアシスを目指すように、頭の中でそういう場所を彷徨う。

大好きな場所をいくつか持っていることはいい。

 



 


・人もまた、群れの中で生きる動物なのだから、ある程度の論理や道徳は必要だが、それは同時にその人自身の魂を生かすものであって欲しいと思う。できるならより風通しの良い、おおらかな群れをつくるための努力をしたい。個性的であることを、柔らかく受け容れられるゆるやかな絆で結ばれた群れを。傷ついていればただそっとしておいてやり、異端であるものにも何となく居場所が与えられ生きていけるような群れを。ちょっとぐらい自分と違うところがあるからといって、目くじらたてて「みんなこうしているのだから」と詰め寄り排斥にかかることがないような群れを。

 



 


・原さんのピアノの音は、空間に落ちる滴のようで、あるときはさりげなく葉っぱを滑り落ち、またあるときは天空の彼方からただまっすぐにこの一点を目指してくるような、優しさと緊張感を含ませて顕れた。

「場」はその音と、照明と、ムーヴメントの三つが付かず離れず、互いが互いの触媒となり、適応し合い、またそのことを自覚し合っている若い感性たちの、濃密な気配と心地よい緊張に満ちていた。

そこが、昼間は美術館のエントランスホールとして機能しているということを思えば、まさに「場」というものは生成されうるもの、もっと言えば、発信されたものの受信体である観客の数だけの「場」が、そのときそこに独立して生じ、また露のように結ばれ、散じていったのだろう。

 


・森下さん(エッセイストの森下典子さん)の言う、自分が百パーセント、ここにいる、という感覚は、自分自身がその「場」に生起している何者かになりきる、つまり、「場」を生き切っている、ということなのだろう。慌ただしい日常を送っていると、二十代のときの森下さんでなくても、心の上っ面と、深い部分が乖離していくのを感じるときがある。

五感の百パーセントをかき集めるようにして、丁寧に、例えば今、目の前にいる相手に応対してみよう、と思う。バラバラになった自分が、そういうとき、きっと焦点を結ぶ。相手を大切に思う、というその一点に。

 



 


・真夜中、というのは心を流れる時間の質と密度が昼間と違う。鋭角的な率直さをもって深くしっかり進んでいくのが分かる。だから夜中に一人でする作業は、そのまま自分の内側にここちよい深さを刻んでいく。特別に静かな夜は、読む本も厳選したいし、深く考えなければならないことは、この時間に行うに限る。

 


・もちろん、たまに早起きした朝の清々しさや、「全く手つかずの午前」をスタートする気持ち良さもまた、格別のものだ。体中が、今日という日の新しい情報を得ようと浮き立っている。日常生活の醍醐味である。それに比べると、真夜中に集中して行う何かには、非日常的な色合いが強い。

 



 


・(梨木さんの車のナビはいつも遠回りの道のりを勧めてくる。) それを充実に変えるコツは、迂回してるんだけど、まあ、いいや、と即座に目的を本来そのものからプロセスを楽しむことにスライドさせることだろう。

 



 


・このマクロにもミクロにもどんどん膨張している世界を、客観的に分かろうとするこたは、どこか決定的に不毛だ。世界で起こっていることに関心をもつことは大切だけれど、そこに等身大の痛みを共有するための想像力を涸らさないために、私たちは私たちの「スケールをもっと小さく」する必要があるのではないだろうか。スケールを小さくする、つまり世界を測る升目を小さくし、より細やかに世界を見つめる。

 



 


・「金鉱」は日常という草むらに、散りまかれた星のように慎ましく隠れている。今年もまたその美しさを味わえると思う、この幸せ。

 



 


・土いじりを始めた途端、我を忘れてしまう。それは子どもの頃だけのことではなく、ガーデニングや家庭菜園を経験した人ならだれでもうなづくところのある「体感」ではないだろうか。不思議な安心感、開放感、何となく、自分は今、正しい方向性にあるという感じ、そういうものが土に向かっていると自然に沸いてくるのである。土と湿り気は、切っても切れないあいだがらである。湿り気がなければ、それは砂だ。さらさらと清潔感がある代わりに生命保持力も低い。湿り気のある土は、様々な菌が存在し、豊穣だ。←土のことを話しているようで、人間のことを話しているみたい。

 


・土は生きものの「なれの果て」。美しいものから目を覆いたくなるものまで、このサイクルにあらゆるものを引き寄せ、生み出していく。見たくないものを無理に見る必要はまったくない。けれど、見たくないと思っていたものが、あるときとても慕わしく思われるときがある。

私は昔、ミミズが苦手だった。今では平気で触れる。地中に住む解体屋・分解屋と呼ばれる虫たちは、人間からはあまり好かれていない。けれど彼らの存在のおかげで、植物の生長は保証されているし、見ていてつらくなるような死骸もいつのまにか土に帰ってくれるのだ。ミミズや菌類のいっぱいいる大地は、祝祭の予感に満ちている。

 



 


・人にはその人が発する特有の磁場のようなものがあり、それが心地よく感じられると、繰り返しその人の元に通いたくなる。それは (相手もそのことを望んでいたら)幸せな関係性というものだが、困ったことに心地よく感じられもしないのになかなか抜け出せない、というタイプの磁場もある。

話しているうちになんだがねばねばの蜘蛛の糸にがんじがらめになっていくような、(中略)否応なく自分が視野狭窄にさせられていくような、そういう磁場の影響をうけつづけると、監禁されて無理やり薬物中毒にさせられていくような気分になる。

 


・程度に応じて自己防衛力と博愛精神との兼ね合いをとりつつ距離の取り具合を判断していかなければならない。

 


・様々な方向性を持つ雑多な木がつくりだす場の雰囲気と、一つの方向に先鋭的に深化していく場のムード。多様性に溢れた前者が健康的で、排他的な後者が病的に感じられるのは多分多くの人が納得できることだろうけれど、どちらの「引き寄せる力」の磁場が強いかというと、一概には言えない。それぞれ、そのときの自分の意識の持ちようによって予想もできない力を発揮するものだから。

 



 


・皮を剥き、短冊に切り、それぞれ酢水につけアクを抜き、と、そこまでやると、あとは好きなように料理ができるので、ここまでが下ごしらえ。これをやっている間、ずっとウドの香りに包まれている。ああ、幸せだ、と思う。食べることも嬉しいが、硬めの産毛に覆われているようなウドを触る手触り、それを剥くときのシャッという音を聞く快感と、立ち上がる香りの清冽さ。酢水の中で透き通るような白と早緑の混交を見る喜び。文字通り、五感が沸き立つような経験である。こういうとき、ああ、料理というのは何と贅沢な喜びであろう、と、食べるだけの人たちに対して申し訳なくさえ思うのだ。

 


・アクの強さはそのものの持ち味のようなもので、あんまり取りすぎると風味がなくなる。←料理のことを言ってるようで人間について話しているみたい。

 


・「アク」は簡単に爪を染め、布を染め、心を染める。その「アク」の質によっては、一度染まったら、二度と元には戻らない。知らなかった自分には戻れない。

 



 


・明るさや音が、強烈であるほど感覚が揺さぶられるわけではない。乱暴に言えば、ハリウッドのように刺激が大きければ大きいほど感覚自体は麻痺するし、入ってくる情報が少なければ少ないほど、僅かな差異を認識しようとより感覚の開口は大きく開かれ、感度は高く研ぎ澄まされていく。

 



 


・実際にその「ニューヨーカー」なる息子の傲慢な言動に接していたケニーは、この母親の言葉に、絶望的なほど「アメリカ」を感じる。自分たちが善の側にあること、誰からも好かれているはずであること、いつも論理的に「正しい」判断をするはずであること、を信じて疑わない。強くて、いつも「いいもの」のはずの「アメリカ」。

 



 

 


・赤ちゃんの目の動きや、その変化に自分の気持ちを道長させていると、「この世に生まれたての頃の気分」というものが蘇ってくるような気がする。時間の流れがいつもと違う。大げさに言うなら、時間の流れている、その一瞬一瞬の音が聞こえてきそうなのだ。空中に浮かんでいる塵の一つにも、じいっと見入ってきた頃が自分の中にかつてあったこと、そして今もあることを思い出させてくれる。

 


・齢を重ねても、身近にそういう(生まれたての)存在がいなくても、世界を新しく感じることができるのは、旅をしているときと、引越しをしたときである。生活のすべてを一から始めなくてはならないという点では、旅よりも引越しの方がよりそれに近い気分になっているかも知れない。

 



 


・場合によっては自己犠牲と呼ばれる行為に崇高さを感じてしまうのは認める。が、それを声高に叫ぶ姿は醜い。ましてや無意識に自分を支配者階級においているとしか思えない人たちが、国民に向けて叫ぶのは。

 



 


リハビリテーションとは、単なる機能回復ではなく、今まで知らなかった自分自身に出会う、驚きと発見に満ちた、人の営みそのものへの直視なのだと、しみじみ思い、とても感銘を受けた。

 

 

 

 


・私が話題にした「ご隠居となんとなく飲むお茶」のテイストは、この「昼酒」にとても近いポジションにあるからだ。「お茶」には食事とは違う融通無礙な気配がある。杉浦さん(漫画家の杉浦日奈子さん)の言葉を借りるなら、「腹を満たすのではない、時を満たすのである」。

 


・そういう「ご隠居さんのお茶」には、周りの気配と自分が調和していて、リラックスしている一体感がある。そういう一体感に身も心もくつろいでいると、ふと、これはこのまま穏やかな死の準備になるのかなあ、と思う。混沌の中に自分の意識が流れていく覚悟が定まる気がするのである。