(summer 2019)
存在の耐えられない軽さ/ミラン・クンデラ
千野栄一訳
・なぜなら、死者は子供のように罪がないからである。たとえ人生が残酷さに満ちていたとしても、墓地にはいつも平和があった。
・俗悪(キッチュ)なものは続けざまに二つの感涙を呼びおこす。第一の涙はいう。芝生を駆けていくこどもは何と美しいんだ!第二の涙はいう。芝生を駆けていく子供に全人類と感激を共有できるのは何と素晴らしいんだろう!この第二の涙こそ、俗悪(キッチュ)を俗悪(キッチュ)たらしめるのである。
・フランツは、ペンダントが格好悪いかどうかに妻の関心があるのではないことを知っていた。それが格好悪いかどうかは、彼女がそう見たいかどうかにかかっていて、美しいかどうかは、それを美しいと見たいかどうかであった。
・でも銀行家と貧乏人を結びつける何かが存在したわ。美に対する憎しみよ。
・彼女のいったことは悲しいことであった。だが、二人は意識しなかったが、幸福であった。悲しみにもかかわらずではなく、悲しさゆえに幸福であった。二人は手をつなぎ、目には二人とも同じ画面、二人の10年間の生活を示す、足を引きずる犬を見ていた。
・犬への愛は無欲なものである。テレザはカレーニン(テレザの犬)に、何も要求しない。愛すらも求めない。私を愛している?誰か私より好きだった?私が彼を愛しているより、彼は私のことを好きかしら?というような二人の人間を苦しめる問いを発することはなかった。愛を測り、調べ、明らかにし、救うために発する問いは全て、愛を急に終わらせるかもしれない。もしかしたら、われわれは愛されたい、すなわち、なんの要求なしに相手に接し、ただその人がいてほしいと望むかわりに、その相手から何かを(愛を)望むゆえに、愛することができないのであろう。
・侵攻を愛と呼ぶように、強いたのは最悪だった
・小説が偶然の秘密に満ちた邂逅によって魅惑的になっているとして非難すべきではなく、人間がありきたりの人生においてこのような偶然に目が開かれていず、そのためにその人生から美の広がりが失われていくのとをまさしく非難しなければならないのである。
・フランツにとって、音楽とは陶酔の意味で理解されるディオニュソスの美にもっとも近いものである。(中略) フランツはいわゆるクラッシック音楽もポップミュージックも区別していない。その区別は彼にオールドファッションで偽善的に見える。彼はロックもモーツァルトと同じように愛しているのである。
彼は音楽を解放者とみなし、彼を孤独、閉鎖、図書館の埃から、解放し、彼の身体のドアを開け、そのドアを通って心を友達と仲良くさせる世界へ進ませると考える。
・人がまだ若いうちは、人生の曲はまだ出だしの数小節のところなので、それを一緒に書き、そのモチーフを交換できるが、もう年がいってから出会うと、2人の曲は大なり小なりできあがっていて、ひとつひとつのことば、一つ一つの対象がそれぞれの人の曲の中でなにか別な意味を持つのである。
・脳の中には、詩的な記憶とでも名付けられるような、まったく別な領域が存在し、我々を魅了し、感激させ、われわれの生活を美しくするものを記録するように思える。
・近さはめまいを引き起こせるのであろうか?
・テレザ、使命なんてばかげているよ。僕には何の使命もない。誰も使命なんてものは持ってないよ。お前が使命を持っていなくて、自由だと知って、とても気分が軽くなったよ。
・同情より重いものは何もないのである。自分自身の感ずる痛みというものは、誰かと共に感じたり、誰かのためを思って、何倍にも強く想像され、百もの共鳴を伴って長びく痛みのように重くはないのである。
・自分の体を通して自分を見つけたいと努めた