写真は、沖縄 3/1/2022
肉体の悪魔 / レイモン・ラディゲ
中条省平訳 光文社
ずっと読んでいたい文章。キレッキレな文章。
2.3年前の私なら、「この本のマルトと”僕”の関係なんてただの “所有的” “侵略的”な[愛]でありそんなものを愛と呼びたくない」と、ただ一蹴していただろうから、逆に今読めてよかった。
合意の所有、所有できないという前提の上での所有。誰にも所有させられないことだけを主体性と呼ぶのではなく、”相手に自分を所有させる”ことを自分が選んでいる、というところにある主体性。委ねのもつ主体性。究極の委ねのもつ主体性。今まで委ねと依存を別のものとして考えてきたつもりだったが、究極の委ねと依存に違いはあるのか?
ー
p.23
子供たちはえてして気分が悪くなるような思いを味わいたいという、独特の欲求を抱くものだ。じっさい、ぼくはこの奇妙な欲求を弟たちより激しく感じていた。自分の心臓が速く不規則に打つことが好きだった。
p.35
僕はマルトの文学の趣味を当てようとした。彼女がボードレールとヴェルレーヌを読んでいると知ってうれしかった。ボードレールに関する彼女の好みは僕と違っていたが、それでも大いに満足した。そこには反抗のにおいが感じられた。マルトの両親も結局は娘の趣味を認めたが、それは親のやさしさのなせるわざだったから、マルトはそのことで両親をうとましく思っていた。
p.56
僕はマルトのことを考えすぎたせいで、しだいに彼女のことを考えなくなった。心だって壁紙を眺める目と同じようなものだ。見つめすぎればもう見えなくなる。
p.61
だが、(自分が) マルトを愛していることが僕には分からなかった。逆に、この変化は、僕の愛が消えて、美しい友情にとって代わられた証拠だと思えたのだ。そしていきなり、今後も長続きするこの友情に比べたら、ほかの感情ははるかに罪深いもので、彼女を愛し、自分のものにできるはずなのに彼女に会うこともできない夫をひどく傷つけるだろうと思いこんでしまった。
p.63
来る日も来る日も、僕が甘美な無言のなかに沈み込んでいくのを見て、
p.64
・体の触れあいを愛のくれるお釣りくらいにしか思わない人もいるが、むしろそれは、情熱だけが使いこなせる愛のもっとも貴重な貨幣なのだ。僕は自分の友情にも愛撫は許されると思っていた。しかし、女性に対するさまざまな権利をあたえてくれるのは愛だけだという事実に、心の底から絶望しはじめていた。僕は愛なしでも我慢できると思っていたが、マルトに対してなんの権利もないことには耐えられなかった。そこで、権利を得るために、じつに嘆かわしいことではあるが、愛にうったえる決心をした。僕はたんにマルトが欲しかったのだが、そのことを分かっていなかった。
p.65
本当は、僕は彼女に顔を寄せたとき、僕の頭を抱いて唇にひき寄せたのはマルトのほうだった。彼女の両手が僕の首に絡みついていた。避難者の手だってこれほど絡みつくことはないだろう。彼女は僕に救助してもらいたいのか、それとも一緒に溺れてほしいのか、僕には分からなかった。
↑救助の手か共に溺れるための手か。これを十代で書いたなんてラディゲすごい。
p.68
最初のキスの味は、初めて味わう果物のように僕を失望させた。いちばん大きな喜びをあたえるのは、新奇さではなく、習慣なのだ。数分後、僕はマルトの唇に慣れていただけでなく、その唇なしではいられなくなっていた。そんなときになって、マルトはもう永久に唇に触れないでといいだした。
↑大きな喜びをあたえるのは習慣、だなんて、なんてmatureな10代だと思ったが、
これを読んだ時の私のメモ :
習慣を喜びと考えるのは保守的かつ成熟。彼はどちらかといえば保守的な意味で習慣を喜びととらえたのだと思う。
p.69
僕は情熱に酔っていた。マルトは僕のものだ。僕がそういったのではない。マルトがそういったのだ。僕は思いのままに彼女の顔に触れ、目や腕にキスをし、服を着せ、傷をつけることさえできた。わけが分からなくなって、肌がむきだしのところに噛みつきさえした。マルトの母親が娘に情夫ができたのではないかと怪しめばいいと思ったのだ。そこに僕のイニシャルを書きこみたくてしかたがなかった。子供の野蛮さが、肌に恋人の名を刺青する古い感覚を甦らせたのだ。
マルトはこういった。
「いいわ、噛んでちょうだい。わたしにしるしをつけて。みんなに知らせたいの」
p.72
ジャックは不器用な男だった。愛する者はいつだって、愛情を持っていない相手を苛立たせる。そのうえ、ジャックは前よりいっそうマルトを愛するようになっていた。
p.82
僕はマルトを恨んでいた。なぜなら、僕に感謝するような彼女の顔を見て、肉体の交わりがどれほど大きな価値を持つか悟ったからだ。僕より前にマルトの体を目覚めさせた男を僕は呪った。
p.83
僕たちはこの男をだましているのに。だが、僕はマルトを愛しすぎているから、僕たちの幸福が罪だなんて考えられない。
p.85
僕は若さというものにとても敏感だったから
p.85
そんなわけで、この夜、僕たちは肉体の酷使よりも、精神の酷使でいっそう疲れていた。両者はたがいにうち消しあうようにも思えたが、じつは、その相乗作用で僕たちを死ぬほどくたくたにした。いつもより数を増した雄鶏が時を告げて鳴いた。いや、ひと晩じゅう鳴いていた。雄鶏が夜明けにいっせいに時を作る、というのは詩的な誇張だと分かった。雄鶏が鳴くのは特別なことじゃない。僕の年齢は不眠症とは無縁なので気づかなかっただけだ。だが、マルトもそれに気づき、ひどく驚いていたのを見て、彼女にとってもこれが初めての経験らしかった。その驚きは、ジャックとではまだ眠れぬ夜を過ごしたことがないという証拠であり、僕は思わずマルトを強く抱きしめていた。
メモ: LOL. このパッセージの全てが滑稽で情熱的で素晴らしい。
あと、朝になると雄鶏が鳴く、ではなく「雄鶏が夜明けにいっせいに時を作る」というのは、フランス語ではよくある表現なのかもしれないが、確かにとても詩的。
p.86
強い不安のせいで、僕はこの愛を特別な愛だと考えた。恋は詩のようなもので、どんなにありふれた恋だろうと、すべての恋人が、自分の恋はいまだかつて誰も知らなかったものだと考える。
p.88
平静に死を直視できるのは、ひとりで死と向かいあったときだけだ。二人で死ぬことはもはや死ではない。疑り深い人だってそう思うだろう。悲しいのは、命に別れを告げることではない。命に意味をあたえてくれるものと別れることだ。愛こそが命なら、一緒に生きることと一緒に死ぬことのあいだに、どんな違いがあるというのだろうか?
だが自分を英雄視している時間はなかった。たぶんジャックは、マルトか僕か、ひとりだけしか殺さないだろうと思い、自分のエゴイズムがどちらの死をよしとするか考えてしまったのだ。この二つの悲劇のうち、ほんとうに恐ろしいのはどちらか、はたして僕に分かっていただろうか。
P.103
だが、ほかのどんな種類の手紙よりラブレターを書くのは簡単だということを僕は忘れていた。愛さえあればいいからだ。マルトの手紙はすばらしいもので、僕がかつて読んだもっとも美しい手紙にも劣らないと思った。だが、そこでマルトはごくありふれたことや、僕と離れて生きることの苦しさなどを語っているだけだった。
p.106
僕はマルトの愛に安住していた。僕がいちばん苦しんでいたのは、禁欲を強いられることだった。僕の苛立ちは、ピアノを弾けないピアニスト、煙草を吸えない愛煙家のそれだった。
p.115
あらゆる高貴なものと同じく、宮廷の礼儀作法は単純なものだ。ところが、庶民のしきたりときたら、これほど不可解なものはない。狂ったように何よりも年齢を優先するのだ。
メモ : LOL. 主人公の年齢の若さを考えると笑える文。
p.116
マルトは、本当の詩は「呪われた」ものだと心得ている詩人のようなものだった。そう心得てはいても、ときには、自分たちが軽蔑する世評が得られないことにつらい思いもするのだった。
p.122
だが、現実には父は僕のいうことなど信じてはいなかった。人並はずれた寛容さで目をつぶっていたのだ。
p.123
もし愚かな青春があるとすれば、怠惰だったことのない青春だろう。教育制度の欠点は、人数が多いという理由で、平凡な人間たちのために作られていることだ。変化する精神には、怠惰など存在しない。はたから見れば空っぽに見えるこの長い日々ほど、僕が多くを学んだことはかつてなかった。成金が自分のテーブルマナーに注意を払うように、僕はこの長い日々、自分の未完成の心をじっと見つめていたのだ。
p.124
それから、僕たちはボートを高い草の影に止めた。人に見られる恐れ、ボートが転覆するかもしれないという恐れが、僕たちの戯れの快感をおそろしく深いものにした。
p.124
すべての愛には、青春期と成熟期と老年期がある。僕はすでに、なにか技巧の助けを借りなければ愛に満足できない最後の段階に来てしまったのだろうか。というのも、僕の快楽は習慣に基づいていたが、その習慣にささいな修正や、無数の小さな変化が加わることで、快感は激しく高まったからだ。つまり、麻薬中毒者な恍惚を味わうのは、すぐに致死量に達する麻薬の量的増加によるのではなく、摂取の時間帯を変えたり、体をびっくりさせるような小細工を施したりして、耽溺のリズムに変化をつけることによるのだろう。