norika_blue

1999年生まれ

PAIN AND RAMBLE

長々とした "とりとめもないおしゃべり" (Rambleをアルクで訳したらそう出てきた) なので気にしないでください。who cares ? lol

 

少し前に書いたんだけど、今読み返してみたら途中からRAMBLE度がすごいのだが、とりあえず載せる。


自己、自分、主体、そして自意識

 

主体的になることと、自意識過剰にならないことは、同じ方向を向いていると思う (これは昨年の大きな気づき)。

 


つまり、私が、自分が自意識過剰になっていると思うときは、大抵主体性をなくしているときだ。逆にいえば、主体性がボロボロだと、自意識過剰になる。私が主体的に動けているときは (大抵それは後になって思うことだけど)、自意識にとらわれてないときだ。

 


では主体性とはなにか。自意識とは何か。(In my opinion)

 


自意識=自己意識には、「公的自己意識」と「私的自己意識」の2種類があるそうだ。(アカデミックでそのように分類されているかは不確かだけど。)

 


公的自己意識 : 他人から自分がどう見られているか、という自己意識

 


私的自己意識 : 自分自身の思考や感情に対しての自己意識

 


社会一般に、自意識過剰、というときは大抵「公的自己意識過剰」のことを指して使われていることが多い気がする。

 


その場合、自意識過剰のとき、主体性が失われるのも説明がつく。他人から自分がどう思われるかという他人軸を考えるあまり、自分が失われ、主体性がなくなるのである。

 


だけど、私的自己意識が過剰でも、自意識過剰になり、主体性がなくなると、私が思う。

 

「自分自身の思考や感情に対しての自己意識」が強いことが、なぜ主体性を失うことにつながるのか。


それは、わたしの中で、「主体性」とは何かという問いにつながる。わたしの中で、主体性とは、委ねの状態にあることと深くつながっている。これは、自己とはなにか、自分とは何か、という問いでもある。例えば私が今この文章を書いているとき、私はどこか「自意識」から離れている。これは何かに夢中になっているときも、そうである。何かに夢中になっているとき、自意識が消える。消えるという表現が極端ならば、究極に薄まる。今文章を書きながら、どこか行き先を自意識ではないどこかに委ねている。

 


人と話しているときも、そうだ。自意識が強い状態で人と話そうとすると、究極に嘘っぽくなる。少なくとも私は。会話をするときは、その場に委ね、自意識から離れる必要がある。

 

中身がない言葉、中身がない行動というのは、身体がない、ということである。「自分」がないということであり、「自己」がないということである。逆にいえば、中身のある、身体のある、言葉を、行動をしようと思うのならば、「自分」を、「自己」をもたなくてはいけない (ここだけ読めば当たり前) 。そして、この「自分」・「自己」というのは、「自意識」と同じではないのだ。

 


もう一度書くと、


中身のある、身体のある、言葉を、行動をしようと思うのならば、「自分」を、「自己」をもたなくてはいけない。

 


ボールド体にしてみた。この文だけ読むと、いかに当たり前で、シンプルなことに思えるか。

 


だけど、重要なのは、「自己」には委ねもふくまれる、という点である。「自分」には、「公的自己意識」どころか、「私的自己意識」でもない、そもそも「意識」とは別の部分も含まれているということである。逆も同様だ。意識とは別の部分をもっていないと、委ねの部分をもっていないと、「自分」ではいられない。そして「自己」を保ってはいられない。そして、それらなしでは、「主体的」でいることはできないのだ。

 


もちろん、「自分」「自己」の中で、「意識」というのも重要だ。だけど、そもそもその意識というものすら、委ねの状態なしに生まれないと思うのだ。「委ねの状態」「意識とは別の部分」とは、言い換えれば、広義な意味の「感覚」ということでもあるのだが。言葉に対して持っているイメージ、的なもの含め。