norika_blue

1999年生まれ

Quotes & musings (17)

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写真は、1ヶ月前の那須

 

悪童日記 / アゴタ・クリストフ

 


こんな小説読んだことない。レビューで、研ぎとまされたナイフのような文体、と書いてる人がいたけどまさにそうだと思う。一冊全部読むからこそ、一文一文がさらに重みを増すから、このQuotesだけみても意味不明かも。できたら高校生のときとかに読みたかった。

 


はじめに堀茂樹さんによる解説より

 


・子供に特有の「無垢」な目を通して一連の極限状況に出会い、そこにおける少年主人公たちの果断な行動に、大人の良識を破る、子供ならではのひとつの倫理 (と著者 A・クリストフが考えるもの)の実践に立ち会うこととなる。子供ならではの倫理はショッキングなまでに「過激」であり、「非常識」であって、俄に是認できるものでないかもしれないが、少なくとも”子供っぽい”理論では断じてなく、ひるがえって没倫理とも違う。なぜならそれは、人間の生態を条件づける「非人間的」とも形容すべき現実をあくまでも冷たく直視する主体が、その「非人間性」への熱い反抗をいささかも放棄することなしに現実のなかで生き延びるために、自らに課した鉄則のようなものだからだ。

 

 

 

・『悪童日記』は、先に列挙したような非常に深刻な問題を、センチメンタリズムともニヒリズムともいっさい妥協をせずに扱っている。しかもそのテクストの行間に堪えた涙のように激しい人間的共感力がみなぎっていることは、少し注意深い読者にはひしひしと感じられる。

 

 

 

・私見によれば、『悪童日記』の主要の魅力は、プロットの妙、主題の斬新な扱い方などにもまして、徹底した非感傷性と独特のユーモアを特徴とする事物と行動の状況劇的描写にある。

 

 

 

・いずれにせよ、A・クリストフの文体はすぐれて自覚的で、なまなましい事象を扱いながら対象への感情の投影を排するのみならず、個々の事象の観念的ないし心理的説明をも余計なものとして退ける。しかしそれは、ヌーヴォー・ロマン風の即物性に閉じこもるためでは全然ない。作中人物を行動主体として、その他の事象を作中人物を取り巻く状況の形成要素描いていることがその証左だ。ただその際、作中人物についてもその他の事象についても、客観的に真実であることを確かめられるようなこと、すなわち事実だけを、思い入れや価値判断やいっさいの解釈を抜きにして記す。その結果、彼女のテクストにおいては、事象はいかなる形においても主体の内部に呑み込まれることのない客体である一方、作中人物は、ある感情の束でも、ある観念の化身でも、ある心理状態の形象でもなく、したがって、所与の事態に対する行動以前には無であって、まさに自由な主体としての行動によってのみ自己のアイデンティティーを定義し、更新していく存在として表れる。この意味で、『悪童日記』の文体は状況劇作家のそれにきわめて近く、さらにいえば、「実存は本質に先立つ」というJ=P・サルトル流の実存主義的人間観に期せずして対応しているように見える。

 

 

 

・こうして「ぼくら」は、外界に圧し潰されないだけでなく、いっさい取り込まれることがない。感受性のない怪物だからではない。生まれながらの超人だからでもない。そうではなくて、どんな状況下でまあくまで自分たちの目で物事を見、自分たちの頭で考え、自分たちの決断によって行動するからだ。「どんなことも絶対に忘れない」、「絶対に泣かない」、そして「絶対にお祈りをしない」強固な「個」を鍛え上げているからだ。しかも、たとえば、非道な現実 ーに衝撃を受けながらも「お祈り」を拒否し、涙を堪えて、「ぼくたちは理解したいんです」と言い切るところに、この「個」の主体的な姿勢、すなわち外界に対して開かれていると同時にあくまで自律的でもある姿勢が如実に表れている。この両面性に注意を払っておきたい。なるほどこの「個」は、いわば心臓まで武装している。生き抜くために必要な残酷さとしたたかさを身につけている。しかしそれでいて、ニヒリズムによって武装しているのではないし、ナルシスティックに他者への窓を閉じているのでもない。物語の随所で読者は確認するはずだ。「ぼくら」がある絶対的な一点 (生命尊重などという一点ではない!)で、人道に絶対的に忠実であることをー。「おばあちゃん」や「将校」のような他者、欺瞞的でない人間には、暗黙のうちに友情を抱いて親しむことをー。

 

 

 

・彼らが分かれて別々の「個」となるとき、つまり他者をより正確には間主観性を内部に含まない孤独な「個」となるとき、彼らは果たして外界に抵抗し、勝利し続けることができるだろうか。この疑問こそ、本書の続編『ふたりの証拠』と『第三の嘘』で、孤独と悪の問題が主要テーマとなる理由だろう。

 

 

 

ーー

 


本文より

 


・ぼくらは体を鍛えることを決意する。泣かずに痛みに耐えることができるようになるためだ。

 

 

 

・(双子はお互いを罵り、言葉がもう頭に喰い込まなくなるまで、耳にさえ入らなくなるまで、続ける。) ぼくらはわざと、人びとに罵られるようなことをする。そして、とうとうどんな言葉にも動じないでいられるようになったことを確認する。しかし、以前に聞いて、記憶に残っている言葉もある。おかあさんは、ぼくらに言ったものだ。

 


「私の愛しい子!最愛の子!私の秘蔵っ子!私の大切な、可愛い赤ちゃん!」

 


これらの言葉を思い出すと、ぼくらの目に涙があふれる。

 


・帰路、ぼくらは道端に生い茂る草むらの中に、林檎とビスケットとチョコレートと硬貨を投げ捨てる。

髪に受けた愛撫だけは、捨てることができない。

 

 

 

・その後、練習を重ねたぼくらは、目に当てる三角の布も耳に詰める草も必要としなかった。盲人を演じる者は単に視線を自分の内側に向け、聾者役は、あらゆる音に対して耳を閉じるのだ。

 

 

 

・「ぼくらは、どんなことも絶対に忘れないよ」

 

ふたりの証拠/ アゴタ・クリストフ



・「できない。ぼくはけっして人を殴ったり、傷つけたりはできない」

「なぜ?ほかの子は、お前を殴り、傷つけているじゃないか」

子供は、リュカの眼をまっすぐに見る。

「ぼく、体になら傷を受けても大してこたえないよ。でも、もしぼくがそんな傷を誰かに与えなければならないとすると、ぼくはもうひとつ別の種類の傷を受けることになって、それには耐えられないと思う」

 


堀茂樹さんの解説より

(要約)

 

・個人の有限性と孤独、その中に閉じ込められた愛と性、精神の生き延びる場としての書物などーを通して重なり、交差し、合流し、共鳴している。

 


・文体に関していえば、処女作で読者の虚をついたあの単純無比の文体、いみじくも塩野七生氏が「少年の裸体に似て無駄のない簡潔さ」と評された文体を、そのまま活用している。

 

 

・悪童日記では、悲惨は、「ぼくら」の外に。ふたりの証拠では、悲惨が人間の内側に、あるいは足元に転移している。