norika_blue

1999年生まれ

プレトニョフ

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@東京オペラシティ

 

音楽を全身で聴く喜び。

じっとしながら音楽を聴くこと。

 


プレトニョフのコンサート、言葉にならない感動をなんとか言葉にしたいという試みなので、この文章がどこにたどり着くか正直わからない。が、書いてみる。


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夏の夜のオペラシティ。まだ外は湿気が残るが、不快なほどではない。平日の夜、こうしてプレトニョフを聴きにいけるなんて、なんて幸せなんだろう。この夏気に入ってよく履いてた、PLEATS PLEASE の薄紫のロングスカートを履いていった。

 


ほぼ満席の会場。開演前のこのガヤガヤは、これからこの「大勢」と共にひとつの音楽を聴くのだという実感を生む。何度でも、このガヤガヤ自体に、演奏会に来たことの高揚感を覚える。これからの、静寂と音楽だけになる空間の序章が、この開演前の環境音だ。ガヤガヤ→静寂→音楽という空間全体での音の膨張・収縮。特に大きめのコンサートホールの時の、醍醐味だと思う。

 


席に着いて、ものすごく分厚い、今後の公演のチラシの袋 (公演前に、このチラシ見るの結構好き)を読みながら、文字通りそわそわと開演を待った。指揮者の高関健さんは前月、東京シティ・フィルと松田華音さんのラフマニノフを聴きに行ったばかり。高関さんが舞台に登場して、それからプレトニョフが続く。

 


何を期待していたのかはわからないがうっすらした期待と (巨匠であるプレトニョフ、という意味で)、期待をするなどなんて軽率な、という気持ちが自分の中で意味もなくせめぎ合う。彼の/彼女の、生の音楽を聴きたい、というのが、コンサートに行く1番の動機でありたいから。巨匠と言われてるからとか有名だとか関係なく。(だが、巨匠といわれるプレトニョフを一度は聴いてみたい、という思いももちろんあった。だから意味のない葛藤。)

 


静寂 (一瞬時が止まったかのような張り詰めた静けさ)、そして、音楽 (時間)の始まり。

 

 

なんてったてプレトニョフ…という気分が最初は抜けなかったので、はじめのうちは一音も聴き逃したくないと意気込んでいたが、気づけば意気込みが薄まり、委ねの中にいた。音楽の流れにまかせて気持ちが揺らいでいき、音が身体中に染み渡り、音楽と一体化していく。

 


まず、今回のコンサートで何よりも意識した (意識させられた) のが、時間だった。完全に時間の流れを操っているのだ (そう感じるくらいなのだ)。

 

誤解を恐れずに言えば、私は「空気」や「雰囲気」というものはすごいものだと思っている。いや逆に、「空気」や「雰囲気」としてそれぞれが"感じるもの"はすごいものだと思っている、という方が正しいかもしれない。

 

それに従うor従わない、良いor悪いを抜きにして、空気や雰囲気というのは (として感じるものは) その場、その人特有のものであり (/として記憶に刻み込まれるものであり)、ものすごく繊細で恐ろしいパワーを持っているものだと思うのだ。曖昧な言葉だからこそ、実は偉大で、それを体験・実感することはものすごく貴重なことだと思ってる。そして、その時の空気は、プレトニョフが完全に操っていた (と感じた)。自分の呼吸がプレトニョフによってつくられているので、この作用が働いているのは私だけではなく、会場の一人一人の呼吸をつくっているのがプレトニョフだ、と勝手に妄信してしまうほどの威力に思えた。もはや怖い。

 


そして、ラフマニノフピアノ協奏曲第2番は、他の色々なピアニストの演奏を何十回と聴いているので尚更、一つ一つの音が「プレトニョフの、今日の、この瞬間の音」して入ってくる。これもまた、今回の演奏会が私にとって特別だった理由なのだ。私はクラシックに精通しているわけでなく、聴く耳も発達していない。ただ、このラフマニノフピアノ協奏曲第2番に関しては何十回も聴いたことで (yes, 主に藤田真央くんの演奏を)、1音1音とまでは言えないが1フレーズ1フレーズを、丁寧に感謝して聴くことができる。もちろん、実際に自分がその曲を弾くことが、何よりもその曲を知ることであり、自分が弾くまでは、わからない部分というのがたくさんあるんだけど。

 

「プレトニョフの、今日の、この瞬間の音」として自分比ではきちんと演奏を聴くことができた、ということを実感できたことが、この日をより特別な記念日化していた。自分が未だ体験していない、そしてこれから体験・理解し得る音楽世界の深さを一層感じれたから。なおさら探求したくなった。

 

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あらためて、うつりゆくもの、循環的な何か、振動のある何か、強弱、「連続性のある動き」つまりは「流れ」を身体に生み出すこと、それができるのが音楽なわけなのだけど、それは呼吸であり、臓器の動きなんだと思う、結局は。

 

ピアノの先生はよく、「音楽は人生そのもの、そして人間そのものなのよ」と言っているのだが、これに関してはまた別で書きたい。

 


宇宙的な音楽世界を体験し、1/5くらいぼーっとしながら帰路についた。電車で帰ろうと思ったら改札前まできてあまりにも混んでいたので引き返してバスで帰った。前もどこかで書いたけど、基本的にバス移動 (混んでいなければ) が私はとても好き。

 


これからオペラシティからはバスで帰ろう。

すんばらしい夏の夜だ。