①の続き
①:https://norikaeden.hatenadiary.com/entry/2020/01/02/054231
ビール・ストリートの恋人たち(2018)
1970年代のニューヨーク。そこから私たちは何が変わった?「あのときはそうだった」とただの過去のこととしていえる話ではないということ。ここに書いた映画は全てそうだけど、この映画もずっとI’m gonna carry it with me for the rest of my life. 人それぞれにストーリーはあるのに、その中でも偏った一部のものしか語られていないことについて。社会的につくられた人種という概念について。
コメット(2014)
よく映画の音だけをイヤホンで聞きながら電車に乗ったりするけれど、この映画も観た後に何度も何度も聞いた。脚本とキャストが本当に秀悦。
オスロ、8月31日(2011)
1つの映画の中に、いろんな種類の孤独がつまっていた。孤独を映画でみせるのって色々な方法があると思うけど、すごく難しいと思う。孤独って寂しさや悲しさともまたちがうし。「寂しさ」の方がもっと他人の存在が色濃く出ている感じだ。「オスロ、8月31日」は1日の中の孤独の移りかわりを秀悦に描いた作品。主人公の心のなかの音が波となって聞こえてくるようなそんな作品だった。
エレファント (2003)
ガス・ヴァン・サントの永遠のベスト。何もかもがいつも通り。学校の中のにおいまで伝わってくる。音や色の使い方も才能を超えていて、生徒の歩き方、話し方、服装も恐ろしいくらいドキュメンタリーみたい。それくらい日常の描き方が卓越している。銃だけの問題ではないのは確かだけど、アメリカの銃社会についてやはり何度でも考えざるをえない。
存在のない子供たち(2018)
頭を殴られたようだった。この映画に関しては、見終わった直後に書いたことをそのまま載せたい。↓
ただ同情して”恵まれない”子達でかわいそうと決めつけて片寄った価値観を押し付けるのも、逆に「彼らは彼らで幸せかも、本人じゃないとわからない」と相対主義で理解を放棄することもしたくない。だからこそ「彼らの」現状を知ること。「このような生活をしている」ということではなく、それが彼らそれぞれににとってなにを意味しているかを知ること。それはまた、人に対して善と悪の二元だけでレッテルを貼らないこと、それぞれの立場について考えようとすること、である。人そのものが悪ではないけれど、悪である行為は存在しなくてはいけない。そしてそれは法が定めるべきである。ゼインが、「こんな国、最低だ」と言ったが、正直私はそれが全てを表していると思った。システムはどこ?子供たちを守るシステムや制度は?と。この状況の中で「それぞれが手を差し伸べ」とか無理に決まっている。みんな自分の生活でいっぱいいっぱい。「社会」が全く機能していない。
政治はなぜここまで機能していないのか?政府はなにをしているんだ?経済がズタボロだから政治もズタボロで、政治がズタボロだから経済もズタボロで、、、、どうしたらこの状況を変えられるんだろう。子供たちが守られるようなシステムを存在させることができるんだろう。市民たちの動きがあって→法というのはこの状況では無理だよね。国という枠組みの中だけで解決するのなんて、不可能だからこそ、他の国と連携してこの状況から抜け出さないといけないのではないかと、私は思う。。。。(国境という馬鹿らしいもの、と監督はパンフレットのインタビューで言っていた。この国で受けられる保護があの国では受けられない、ゼインたちの状況をみると、更にその国境というくくりは馬鹿げているように思える。(これを書いていて思い出したけれど、まさにあのシリア人なら受けられる供給がレバノン人だと受けられない、というシーンはそのような矛盾を表していたのではないかな)それはもはや税金とかそういうのとは関係ないレベルのものである。国と個人の関係。私たちは常に人々にラベルを貼り、カテゴリー化をしていく。(言葉を使うというそのこと自体が既にラベル貼りである) 。ラベリングのネガティブな点は単純化してそのものを窮屈にみせる。国籍(なに人?と言われた時にこたえるもの)が、人をラベリングする、見た目が人をラベリングする、性別が人をラベリングする、、、その中でも国籍でのラベリングは、人々を縛ることが多い(少なくとも2019年の社会では)。国と個人の関係についても、この映画を観ていると考えることがあった。