写真は今夜のデザートで、レザネフォールのピスタッシュグリオット。濃いピスタチオのムースとキルシュ酒漬けの甘酸っぱいチェリーが至福🍒
肉体の悪魔 / レイモン・ラディゲ
中条省平訳 光文社
後半
前半は :
https://norikaeden.hatenadiary.com/entry/2022/04/11/233554
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p.126
こうしたすべてがその場かぎりのことだという気持ちが、妖しい香りのように僕の官能を刺激していた。それは行きずりの女と愛なき愛を交わすようなもので、いつもより荒々しいこの快感を一度味わったら、ほかの快楽は色あせてしまう。
いっぽうで僕は、貞潔で自由な眠り、清浄なシーツのかかったベッドにひとりで寝る感覚の心地よさも知りはじめていた。慎重に行動すべきだという理屈をもちだして、もはやマルトの家には泊まらなくなった。
↑Yeahh 「貞潔で自由な眠り、清浄なシーツのかかったベッドに一人で寝る感覚の心地よさ」…..
p.131
「黙ってたんじゃ、おたがいのためにならないってことだね」
おたがいに内心の考えもいっさい隠さないと約束した。そんなことが可能だと考えるマルトがすこし哀れな気がした。
↑Lol
p.139
本能は僕たちの案内人だ。
p.143
僕はパリまでマルトを送らないと心に決めていた。だが、彼女の唇がほしいという欲望に勝てなかった。卑怯にも彼女への愛を軽減したいと望んでいたので、この欲望の強烈さはマルトがいなくなるせいだ、これが「最後」だからだと自分に言い聞かせていた。しかし、これが「最後」なんて嘘っぱちで、マルトが望まないかぎり、これが「最後」ということはないとも直感していた。
p.147
僕は愛情が高まってくると、酔っぱらいが誰かれかまわずキスするように、ジャックに自分がマルトの愛人だと告白し、愛人としての立場からマルトをよろしく頼むと手紙を書こうとさえ考えた。
p.149
(スヴェアが着ているドレスに対して)
その十字架はかなり不恰好なドレスの上に垂れ下がっていたので、僕はそのドレスを自分の趣味にあわせて想像で着せ替えていた。
メモ : 本当に面白いんだが。
p.155
だが、絶縁状なのに、マルトが自殺すると脅さないことに僕の自尊心は傷ついていた。僕はマルトの冷たさに腹を立てた。(中略)こんな場合、ぼくだったら、ほんとうに自殺する気はなくても、しきたりにのっとって、自殺するといってマルトを脅すべきと考えただらう。年齢の未熟さと学友の教えの名残で、僕はある種の嘘をつくことは恋愛というゲームの規則だと信じていた。
p.156
僕は愛などなくてもいられるように早く強くなりたかった。そうすれば、自分の欲望をひとつも犠牲にする必要がなくなる。
↑メモ ; makes sense. 愛は覚悟であり意志。移りゆく欲望とは違う。愛と欲望が時に対立しえることを二文で書くラディゲ…
p.159
僕は父に命令されても、弟たちのように庭の手入れをしたことは一度もなかったが、いまはマルトの庭を耕していた。熊手で土を掻き、雑草を引っこぬいた。暑い一日を終えた夕方には、僕だけが頼りの大地や花々の渇きを癒してやったこたに酔って、女の欲望を満たしてやったときと同じ、男としての誇らしさを感じていた。
↑メモ : Jeez
p.159 (↑の続き)
僕はこれまで、やさしさを愚かしい感情だと思っていた。いまは、やさしさの大きな力を知っていた。僕の手入れで花々が開花し、僕が投げてやった穀物を食べて鶏たちは木陰で眠る。なんというやさしさ?いや、なんというエゴイズムだろう。花々が枯れ、鶏が痩せれば、僕たちの愛の島がもの悲しく見えるからだ。僕があたえる水や穀物は、花々や鶏よりも、僕を養っていたのだ。
p.161
・そういわれて、僕はあらためて自分という人間が分かった。薔薇の二ヶ月を楽しみたいという欲望で、残りの十ヶ月を忘れてしまうのだ。
p.162
・ジャックが飛行兵でもなければ酒場の常連でもないので軽蔑しているのだった。
↑メモ ; 酒場の常連であることは誇り?
p.181
(マルトは)「ジャックと幸福になるより、あなたと不幸になる方がいい」とつぶやいた。こうして口に出すのも恥ずかしい、何の意味もない言葉だが、愛する者の口から出れば酔わされてしまう。僕はマルトの言葉の意味が分かったような気にさえなった。だが、正確にはどういう意味なのだろう?愛してもいない人間と一緒にいて幸福になれるのか?
p.182
バスティーユ駅で降りた。僕は寒さをこの世界でいちばん清浄なものだと思っているので、いっこうに苦にならない。
p.199
マルトは手紙のなかで、「この子はあなたに似ています」とも書いていた。(中略) 「目はわたしにそっくりです」ともつけ加えていた。ひとりの赤ん坊のなかで僕たちふたりが一緒になっているところを見たいばかりに、その子に自分そっくりの目を見出したのだ。
この本の訳者でもある中条省平さんによる解説より
p.208
つまり『肉体の悪魔』の素材自体は本当にありふれた若者と人妻のひとときの恋愛関係の話なのです。それをフランス心理小説の究極の傑作にしているのは、人間の心理と感情を、複雑ではあるが機械のように動く純粋なメカニズムとして分析する文体の硬質さです。そこには曖昧なできごとや感情の曇りはいっさいありません。しかも、その文体は余分な言葉を殺ぎおとしてぎりぎりまで濃縮されています。人間心理のエッセンスをとり出して濃縮し、それを冷凍保存したような硬さと冷たさがラディゲの天才のしるしです。恐ろしい小説だというほかありません。
p.225
(「ラディゲ全集ついて」三島由紀夫の言葉↓)
戦後の若い人たちは、フランス映画『肉体の悪魔』でラディゲの名を知った人が多かったろう。しかし一度ラディゲを知れば、この青春の魔にとりつかれない若者は、むしろどうかしている。私は生来、小説の作中人物に惚れたことはないが、作者ラディゲその人には、少年時代の凡てを賭けて惚れたのであった。こんなに颯爽たる若者はオリンピックの選手にもざらにはいない。
p.226
『肉体の悪魔』には、ラディゲの精神だけでなく、肉体 (あるいは無意識)から来る謎めいたエネルギーが満ちているように思えたからです。新訳するにあたっては、誰にもよく知られた『肉体の悪魔』という邦題をどうするか?という問題がありました。そもそも、フランス語現代の Le Diable au corpsというのはたしかに「体に悪魔がいる」という意味ですが、そこから転じて、「冷酷非情に悪事をおこなえる」とか「ひどく精力的で活発である」とか、「激しい恋のとりこになってある」などという、比喩的さまざまに異なった状態を表す言葉です。それを「肉体の悪魔」 (!) といい切ってしまうと、なにやら肉欲の権化になったような、性的な意味あいがあまりにも強くなってしまいます。
それを嫌ったせいか、若き三島由紀夫のバイブルだった『ドルジェル伯の舞踏会』の名訳者・堀口大學などは、「魔に憑かれて」という訳題をあたえています。このほうが原題に忠実なだけでなく、原語表現の多様な意味の広がりまでカバーしているので、一時は私もこの訳題を採用しようかと思いました。
しかし、最後にはふたたび『肉体の悪魔』に落ち着いたのは、この小説では、思春期の青年の恋愛への衝動が、まるで若い肉体に自分でもどうにもならない悪魔を飼っているような状態として描かれているからです。このデーモンのような強烈さを表すには、「悪魔」と「肉体」という二つの強い言葉の衝突がどうしても必要だと考えたのです。