norika_blue

1999年生まれ

Quotes, musings (14)

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(あえて川じゃなくて、夜暗闇になる直前のplymouth)



 

水辺にて / 梨木香歩

 

 

・おもしろいと思うこと、全部やってみたらいいんだよ。いっぱい出てくるよ、きっと。世界はあの山の向こうの向こうのずっと果てまでつながっている。どんどんどんどん進んでいったらいいよ。海を渡って、空を飛んで。そういう、物語にしよう。一つ一つ、自分の手でつかんで、確かめて、歩いてゆく、そういう物語。ごまかしのない、まっすぐの、そういう物語を生きるんだ。あなたたちがここを抜けて、歩き出さないと、あなたたちを忘れたままの大人は、とっても大変だ。

 

 


・その川旅の間中、絶えず流れていたあの森の奥からの便りのような芳香といったら。落ち葉が日の光に乾いてゆく、カサカサと清潔で幸福な甘さ。あるいはもっと具体的にカツラの木の匂い、それに揮発性の成分が勝ったような針葉樹の匂い、または何かの実が落ちて少しずつ発酵してゆく少し疲れたような甘さ、それからキノコが発生して、そしてまた腐葉土に溶けて戻っていくような、そういう複雑な過程も織り込まれた…

 

 

 

・川が通過してゆく森の、その場所ごとに、その匂いが少しずつ異なり、それぞれ澄んだ空気のその上に、供せるように運ばれてくる。川筋はまた、森の中を縫うように吹いてきた空気の流れの寄ってくるところでもあるのだろう。語られるのは森の由来と履歴。

ーああ、これは秋の香りだ。

ーこの季節特有ですか?

ーそうですね、秋の山の匂いですね。他の季節ではしませんね。

 

 


・吹き荒ぶ西風には、大抵のものは持ちこたえられないのだろう。その中を、亡霊のように消えたり浮かんだりする「思い出」。

 

 


・そう、前線の移動とか、遠くで発生した低気圧とか高気圧とか嵐の前とか後とか、複雑に絡み合った条件の結果、信じられないような美しい気象に遭遇することがあるように、人生には突然何の脈略もなく、さあ、存分に解釈してくださいと言わんばかり、信じられないような偶然が発生することがある。そんな罠のような一瞬。

 

 

 

・そう、水辺は、限りない「無」を感じさせる。ウォーターランドは、どこの国のそれであろうと、豊饒でありつつ、なつ、静かで穏やかな「死」すら、喚起する。

うららかな湖面を漕いでいるときま、「絶対安全」の運河を漕いでいるときも、それこそ、絶対安全のすぐ下に、剃刀を想起するように、ピンと張った一筋のロープのような緊張感がある。それが、水辺の遊びの通奏低音のように、最初から終いまで付いて回る。そのロープは、生の豊かさ、喜びと、死の昏さ、静けさ、安定で縒り合わされている。

 

 

 

・宇宙のあらゆる場所で、人を含むあらゆる生物 (もしくは鉱物、浮遊物とかも)が、それぞれの孤独を抱え、確実な受信の当てもなく、発信を続けている。そして何もそれは、悲壮感漂うことではない。

そう考えると、さあっと風がとおってゆくようだ。

北極圏で何ヶ月も孤独な生活を営むことが日常的だった、あの写真家から受ける印象も、本来そういうものではなかったか。明るく、豊饒な孤独。

今はこの考えの方向性を気に入っている。

豊かな孤独。そちらの方から、少し明るい、軽やかな空気が流れてくるような気がして。メランコリーは私をろくな場所に導かない。

この藪を抜けて、舳先を、明るい方へ向けよう。

 

 

 

・ときどき対人関係で少し苦境に陥るだけで、概して退屈とは縁遠い毎日を送れたのだから。

 

 


・個体の中に流れている時間のスパンが、動物のそれとはどこか決定的に違う、という気がする。

 

 

 

・森の様々な匂いを集めて、風が川筋に寄っていくように、水もまた、人の想像の及ばない時間をかけて、様々な場所を留まることなく走り抜け、その履歴を背負っていつか海に向かう。川の水を迎える海は、魚は、生物たちは、その物語をどう読み解くのだろう。

その微妙に違う物語を、読み込む力が人に備わっていないにしても、そのことに思いを巡らせ、感官を開こうとすることは、今、この瞬間にも、できることなのだと信じている。ほしてその開かれてあろうとする姿勢こそが、また、人の世のファシズム的な偏狭を崩してゆく、静かな戦いそのものになることも。

 

 

 

・ああもう、世界は何と、フラクタルの万華鏡のようなのだろう!

 

 

 

・個人の意識の底に沈んでいた、思い出から醸された夢、そして生まれる前からあらかじめ仕込まれていた太古の夢が、絡み合い響きあって繰り返し繰り返し、不思議な旋律を伴って深い水底から訪れる。

水辺にある、とはそういうことなのだろう。そしてまた、それは必要なことなのだろう。「全体性を恢復する」ということの、真の意味がいつか分かるためには。

 

 

 

・(映画 Man of Aranの、アイルランド西岸、アラン島沖、命がけでウバザメ釣りをする場面について、)漁を終えた男たちは息も絶え絶え、荒海から帰ると、浜で待ちわびた女友達がさっそく解体の準備をする。肝臓を煮込んで採る油はほの一冬の灯油となり、ランプの灯りと燃える。豊漁で湧き上がる歓声と笑顔は、命と生活に直結している安堵感の表出だ。

こういうアイリッシュアイランダースの殺気あふれる「漁」を見るとやはり、優雅な英国人 (イングリッシュ)のフィッシングなんて、所詮卑怯なゲーム、とつい思ってしまう。釣られる側の必死さ (向こうは命が懸かっているのだ)に比して、釣る側の圧倒的な優位が嫌だ。あの手この手で相手を騙そうとする姑息さ、命をもてあそぶスポーツ、と言い切るのはうがちすぎか。本来同じ条件で較べられないものなのかもしれない。

(中略)

あの魚が食べたい、そのために釣る、という本能に根差した欲求なら分かる。(中略)バス釣りのボートがキャッチアンドリリースなどということをやっているのを見たりすると、やっぱりいけない。拡声器があったら手に取って怒鳴りたくなる (あってもやらないだろうけど、たぶん)。命が懸かる情景には、それなりの殺気が漲ってしかるべき、と思う。

 

 

 

・ウバザメと人との格闘は、それぞれをそれぞれの世界に引きずり込もうとする、引きずり上げようとする凄まじいものだった。水中へ、水上へ。殺気、というものが画面に充ち満ちていた。

 

 

 

・けれどあれから何年も経って、今少なくともはっきり言えることは、もともと弱くて臆病な人間にこそ、見える景色があり、持てる勇気がある、ということ。最初から勇猛果敢で戦闘的な人間には、勇気を奮い起こす必要などないのだから。

 

 

 

・自然は長い長い時間を掛けて、人工のものも外来種もやがて自身の一部として融け込ませ、優しい循環を成してゆく。「定着」という言葉には時間が必要だ。(中略)現代のほとんど全ての問題が、時間を掛けてゆっくり熟成させることを軽んじてきた、そのことが社会に、もう手遅れかも知れない、という絶望的なほどの危機感を募らせている…それは本当に本当に「危機」なのだ。けれど、水辺でゆったりと、自分自身を自然の中にチューニングするかのように浮かんでいると、それでも、どこかに光があるような気がしてくるのが不思議だ。生命は儚い、けれどしたたかだ。

ゆつくりと治つてゆかう 陽に透けて横に流るる風花を吸ふ

何をあんなに焦っていたのだろう。この循環の一部になりきればいいことなのに。

 

 

 

・(落ち着くことなくあちこちを突いて歩き回ったり、梨木さんたちと等間隔で併走するように動いたりしたいるアオサギをみて、)

若い個体らしい、世界がどうなっているのかを知りたい欲求は種を超えたものだ。本能的なものでもあるのだろう。彼のこれから始まる長い「世界との付き合い」の中で、その学習は命に関わる必須のことでもあるから。歳をとるとまずその欲求がなくなる。「世界がどうなっているか知ること」はそれほど大した意味は持たなくなる。そしてそういう欲求がなくなるということはそのまま「世界の一部として朽ちてゆく」準備のひとつにもなるのだろう。生体としての段階が一段階先に進んだという、それだけのこと。嘆くには当たらない。いつか自分にそういうときがきたら、何かから解放され自由になったような気さえするのではないかと想像する。

 

 

 

・大都市や町や村を貫いて走る国道が国土の大動脈なら杣道は毛細血管。次第に大きな道に収斂してゆく。流れる川も血液。老廃物を吸収ししかるべき手段を経て浄化してゆく、大河は大動脈。山肌にしみ込み湧き出て、森の木々の間を走り抜ける清冽な流れは毛細血管。私の皮膚は呼吸をし、木々の葉は蒸散作用を行い、土も水蒸気をぼやぼやと出し、雲をつくり雨を呼び、風を呼び、皮膚が細かな水の粒子を受ける。重なり合い影響を受け循環を助ける数限りない諸々の作用、それを感じる生体であることの歓び。

 

 


・部分が全体を繋ぐこと。自分の生きている世界を、部分を、注意深く見つめること。自分がやがて還ってゆく世界を慈しむこと。

この、自分がそういう循環の一部であることをどれだけ心の深いレベルで納得できるか、ということがここしばらくの最大関心事の一つだった。循環してゆく神羅万象に、この意識も、還元されてゆくときがいつかくる。頭では分かることと、それが存在自体で納得できることは、大きな違いがある。何も怖れることはないのだ。それは諦めと同時に限りない安らぎになる。解放になる。必ず、そうなる。そういうことが理屈ではなく感得できる瞬間が、晴天から落ちてくる一片の雪びらのように、私を訪れるようになった。

 

 

 

・焚き火って、燃やす枝のちょっとしたバランスの取り具合だとか、一つ一つの特徴だとか、今どの段階だとか、担当している本人しか分からない微妙な感じ、っていうのがあるから、途中で横から、勝手に枯れ枝突っ込んだりなんかしてはならない、やってる本人に敬意を表して、存分に熱中させよう、っていう思いやりの規則なんです。

ああ、それはよく分かる、と思う。九州の山小屋が薪ストーブなので、私も火の熾し方には一家言ある。確かに自分で熾した火には、誰にも触って欲しくない気がするものだ。今のこの火のことは、私にしかわからない、という妙な自負と軽くぴりぴりした緊張感のようなものに取り憑かれてしまう。

 

 

 

・アザラシは、当時の人々がほとんど見ることのできなかった海の底と陸を自由に行き来する。海中深く潜ったところにあるであろう国、というのは、人の心の奥深くに潜む、意識ではどうにも統御できない領域を思わせる。その深い海の底から、何かの使者のように現れるアザラシとコンタクトを持ちたい、というのは、人の心からの欲求なのだろう。

 

 

 

・「異界からの使者」は、もちろん、実際にはアザラシや人魚や天女である必要はない。それは単なる比喩だが、ただ、文字通り「異界」の住民である相手とは、一瞬の接触があったとしても、そういう「羽衣」型の民話に見られるように、結局ほれぼれの属する集団へそれぞれ帰ってゆくのが、まあ穏当なところなのだろう。精神の、賦活化も図れて、健全な、そのバランスもまた、保たれて。

本気で「結合」を試みようとすれば、それこそ「死と再生」をかけた命がけの挑戦になるのだ。やらずにすむのならやらないに越したことはない。

 

 

 

文庫版あとがきより

 


野山を歩いていても思うのだが、より速度を落として歩いた方が、世界の「厚み」を実感できる気がする。落ち葉の影に隠れたうつくしい茸を見つけたり、生みつけられたばかりのカマキリの卵を発見したり、図鑑でしか見たことがなかった植物に出会えたり。そういうことは、急ぎ足では見落としがちになる。自転車でもだめだ。いわんや車をや。主体の移動速度が増せば増すほど、その主体にとっての世界は厚みを失う。ときにその場に立ち止まり、じっと五感をめぐらし、そのめぐらした関係性の構造ようなものがグジャグジャにならないよう、ゆっくりした動きでその場から歩を進める。傍から見れば、くつろぎの極致のように見えるだろうが、実はけっこう内的な緊張度は高いのだ ー 単にうれしくて気分が昂揚しているだけかもしれないが。

 

 

 

酒井秀夫によるこの本の解説 : 気配を感じること



 

本書の前に書かれたエッセイ「ぐるりのこと」の終わりのほうで、梨木さんは、「私はmarsh」という言葉が好きだ。陸地と河川を分ける境界にある、湿原、沼地のようなとのろ」と宣言されている。そして「marsh という言葉の周囲に立ち上がる、水気をおびた空気や丈高い草々、生活する鳥や獣たち、そして昆虫、そういった多様ないくつもの生命が、一斉に風に吹かれていく感じ、そういうものだけははっきりとした気配を伴って私の脳裏をよぎるのだ。言葉というものは本当に不思議だ。口にしただけで何かの雪が降りてくる、魔力を持っている、と、昔の人が考えたのも無理はない」と、本書がいつか編まれることを待ち遠しくさせていた。




「物語を語りたい。そこに人が存在する、その大地の由来を」(ぐるりのこと)