(my beloved campus)
(エッセイ)
・自然をコントロールするのでは、もちろん、なく、自然と付き合う、のですらなく、生かされている、そして積極的に生きようとする、その受け身の意識と能動の意志のバランスこそが「自然」、と今は見当をつけている。
・「五月の風をゼリーにして持ってきてください」というのは立原道造の病床の言葉だが、生命力が横溢するような生垣の5月の風を吸うたび、私はこの言葉を思い出し、
・一時の「激情」ではなく、着実な、途切れることのない、ひたすらな思い。自らの裡(うち) で、静かに燃やし続ける「熱」。
・建築というものは、人の誕生や死、歓喜や悲哀の記憶をその歴史に抱え込んでこそ、味わい深く、独特の風格を帯びてくるものなのである。そしてその風格は、(人の個性に二つと同じものがないように)それぞれ違う。
・人が自分の生理的な「これ以上はできない」の線引きをする場所は、それぞれ違っていて、その線引きの場所がその人の個性の発露のように思われ、愛おしく感じられる。
・道路脇だというのに、草いきれの混じる空気には、寂しいくらいひと気がなく、それが潔く清々しい。いつも思うのだが、観光のために構えない、こういう何気ない路傍にこそ、その国の自然の本質が現れているような気がしてならない。
・けれど会いたいと思っていなければ、いざ会っていてもそのことに気づかない。
・私のそういうものの知識や、読んだもの、見たものの記憶が、現実をどんどん膨らませていっているのだ。
・じっとしていると、ときどき自分が人間であることから離れていくような気がする。人が森にあるときは、森もまた人に在る。現実的な相互作用ー人の出す二酸化炭素や持ち運ぶ菌等が、森に影響を与え、人もまたフィトンチッド等を受け取るーだけでなく、何か、互いの浸食作用で互いの輪郭が、少し、ぼやけてくるような、そういう個と個の垣根がなくなり、重なるような一瞬がある。生きていくために、そういう一瞬を必要とする人々がいる。人が森を出ても、人の中には森が残る。だんだんそれが減ってくる頃、そういう人々はまた森に帰りたくなるのだろう。自分の中に森を補填するために。
・廃墟が好きだ。この廃墟も、屋根のない回廊のすみに、青々とした草が勢いよく茂っていたり、庭一面、青く美しいツルボが花をつけたりしている。野晒しの骸骨の眼窩から、フキがしゅんしゅんのびているような「ものすごし」と「物寂しさ」と「逞しさ」と「いっそ清々しい」感じが好きなのだ。時間が凝縮されて目の前にある感じ、遠くから風が吹いてくる感じも。
・祖国は地球
・彼はこの’以前’という言葉を使うことによって、自分の人生を二つにはっきりとわけてしまったことには気づかなかった。
・自分の気持ちを打ち明けられないことに苦しみ、相手の気持ちを知りたくてまた苦しむのだった。そして、自分のすべてを与えたいという早熟で狂暴な本能に対して、身をかたくする以外なにができただろう?
・言葉はかわさなくとも、この上ない喜びに満ちた毎日の海水浴は、困難な年齢にいる彼らに、消え去ろうとしている平和と幼年時代を、二つながら返してくれるのだった。
・彼女のまなざしの青い光を彼の上にそそいでいた。
・ふたりとも、両親たちの子どもっぽさ、笑いあえる気楽さ、未来は平穏なりという信念、そういったものがうらやましかった。
・少なくとも、少年は今自分が通り過ぎてきた嵐を背後に残してきた。彼が持ち帰ったのは、泳いだあとの疲労感と、避難してやっと陸地にたどりついた船員のだれしもが味わう、これでとにかく助かったという安堵感だけだった。
・幼いころ、さびしいことがあったり、成長にともなう熱に苦しんだりしたとき、ベッドに折りこまれたシーツのひんやりとした片隅に、自分を守ってくれる夜を見いだした姿勢だった。
・コレット自身が生きることを愛する人だから、熱源を放ち得るのだろう。
・そうして、都会の一隅で本を読んでいるのに、私たちの心はフランスのブルターニュの海岸にいるような気になり、ひとつの恋の山場をのりこえたような、切ない気持になって、ベッドに海の匂いを書くだろう。
5月27日