(Book and Bed Tokyo に昨日行った)
僕は、そして僕たちはどう生きるか / 梨木香歩
・群れが大きく激しく動く その一瞬前にも
自分を保っているために
・「自分が本当に怖がっているものが何なのか、きちんとそれを把握する。そしたらもうその恐怖からは半分以上解放されている」
・「育った環境や土の成分の微妙な差で、例えばのここのヨモギと公園のヨモギとは、やっぱり少し違うだろうし」
「へえ、面白い。でも、それだけのことで、出てくる色まで違うんですか」
「違うんだよね、それが。人間だって、みんな違うでしょう。遺伝とかもあるだろうけど、育った環境も大きいと思うなあ。そうそう、同じヨモギでも、一日たつと、もう昨日とは違う色になったりするんだよ」
「そんな不安定な仕事、よくやってられるなあ」僕はあきれて思わず声を出した。
「そこがいいんだよ。自分の希望としてはこんな色になって欲しいっていうのが一応あるけど、最終的にはヨモギ自身がなりたいようになっていく。その共同作業みたいなところが」
・ああ、そうか、僕が「どっきりカメラ」みたいなものにもつ嫌な感じは、それなのかもしれない。実験している感じ。対等な場所からではなく、相手より安全な場所から、その相手を観察している感じ。やってる本人に明確な悪意はないんだろうけれど、その「無邪気さ」を隠れ蓑にして、人を笑いものにする。そう、こいつののとみんなで笑おうよ、みたいな妙ななれなれしさと媚び。人一人犠牲にして簡単に仲間意識を捏造しようとするお手軽さと無理やりさ。笑いの質の不健全さ。演出する方にも見せられてつい笑う方にも、後ろめたさみたいなものが必ずあると思う。後味の悪い笑い。
・命が命を奪う、っていうのは、もっと動物的な、こいつを食いたい、っていう衝動の中で行われるべきことで、命は本来、その命を呑み込む力のある別の生命力によって奪われるものなのよ。それが礼儀というか、自然の作法のようなものではないかしら。田舎の庭で飼われているニワトリは、そういう運命のもとで飼われているのよ。でも、そういう強くて切実な欲望もない、へっぴり腰のコペルたちが、おっかなびっくりやるのは、命に対して失礼な気がするわ。
・陽も大分傾いてきた周囲の色合いの中で、焚火の煙が、なんか、空気を懐かしく優しいものに変えていくのが感じられた。
「町の中に、こんなとこがあるなんて、ほんと、夢のようです」
・「黙ってた方が、何か、プライドが保てる気がするんだ。こんなことに傷ついていない、なんとも思ってないっていう方が、人間の器が大きいような気がするんだ。でも、それは違う。大事なことがとりこぼれていく。人間は傷つきやすくて壊れやすいものだってことが。傷ついていないふりをしているのはかっこいいことでも強いことでもないよ。あんたが踏んでんのは私の足で、痛いんだ、早く外してくれ、って言わなきゃ」
・「だから、その子が、生きていてくれるだけで、嬉しい。よかった、ここを、この場所を、君が守っていてくれて」
・残照が、すっかり暮れなずんだ風景を茜色に染め上げていた。空にところどころ見える黄色が、これから茜色に変わるつもりなのか、それともこのまま昏い闇の色に移行するのか、自分の行く先を躊躇っているかのようだった。
・あの日の、あの瞬間のことを、僕は一生忘れないだろう。人間には、やっぱり群れが必要なんだって、僕は今、しみじみ思う。インジャの身の上に起こったことを知った今になっても。そう、人が生きるために、群れは必要だ。強制や糾弾のない、許し合える、ゆるやかで温かい絆の群れが。人が一人になることも了解してくれる、離れていくことも認めてくれる、けど、いつでも迎えてくれる、そんな「いい加減」の群れ。
はからずもあのときあの場で、オーストラリア人のマークや、ノボちゃんや、ショウコやユージンや僕が、「つくっていた群れ」はそういう類のものだった。
僕はショウコみたいなヒーローのタイプじゃない。
けれど、そういう「群れの体温」みたいなものを必要としている人に、いざ、出会ったら、ときを逸せず、すぐさま迷わず、この言葉を言う力を、自分につけるために、僕は、考え続けて、生きていく。
やあ。
よかったら、ここにおいでよ。
気に入ったら、
ここが君の席だよ。
色彩の息子 / 山田詠美
・太陽は、いつのまにか、西に傾き、私は、この数時間の内に、すっかり日に灼けたようなだるさを感じていた。
・「あんた、気が狂ってるの?それとも、詩人?」
・森に囲まれた私のアパートメントは、まるでかくれ家のように、私たちを包み、私たちは、ポーチにテーブルを出し、お酒を啜ったり、自分たちのして来た恋について語り合い、そして時には愛し合った。私は、彼に対して、普段は友情以外の何ものも感じていなかったが、彼が少しでも性的な視線を、私の体のあちこちに貼り付けたりすると、人が変わったようになった。
・私の幸福の味わい方は、そういうことだった。私は自分の持つ感覚、全てを疲れ切る程に使い続けなければ、人を愛することが出来ない人間だった。