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1999年生まれ

冒険&旅 ① 自然と四字熟語

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(新潟県南魚沼市の栃窪集落で。2019年5月)



小学生のとき、岡田淳さん作の「二分間の冒険」という本が大好きだった。(きっと今読んでも好き)

 

 

都会での冒険と、自然に対峙しながらの冒険は当たり前だけど違う。東京がとても好きだけど、今に比べて小学生・中学生の頃は、「都会から離れて田舎で過ごしたい」という思いが強かったから、山や海の美しさや厳しさを描いた小説を読むことで、自分が少ないながら訪ねたことのある自然の、記憶の近くにいようとしていたのだと思う。

 

 

p.s. これを書きながら、自然の様々な現象を表す四字熟語って何があるんだろう…と思っていたら素晴らしいものがたくさん…!毎回何かを書くとき、自分の感覚に一番近い言葉を探すために熟語をググることもあるんだけど、そのたびに存在する自分の知らなかった語彙の豊富さに驚嘆する。「語彙が少ない為に言っていることが嘘のようになってしまう」とどこかに書いていた人がいたことを思い出す(誰が言っていたかを思い出せない…)。

 

嘘、とまでは思わないけど、確かに自分の思うことや感じることに対して最も近い言葉を認識することは、周りだけではなく自分に対して真正でいるために、私にとってとても重要なことだ。そして正直、それが毎回できているとは全く思わない。書き言葉であれば、自分のペースで言葉を探せるから、私が知っている(それか新しく見つけた)語彙の中で自分の気持ちや考えに最も近いものを選出している感覚があるけれど、話し言葉だと伝えたいことが言葉にならなくて言葉につまることがよくある。

 

 

ANYWAY, 特に好きになった四字熟語。でもどれも、結局自分の記憶に結びついている四字熟語で (記憶、といえるほどはっきりしているものではなくてもどこか自分の身体に宿る感覚)、結局そういうものを好きになってしまう。この言葉(四字熟語)を使うとき、他の人々はどの景色のことを思ったんだろう。

 

 

↓全てgoo辞書より。言葉を言葉で説明するのだから、辞書って語彙の選出の仕方が最大限に問われるものだと思うし、すごいよなぁ。私には「お気に入りの辞書」と呼べるものはまだないけど、読み比べてみたい。

 

 

暗香疎影(あんこうそえい)

どこからともなく漂いくる花の香りと、月光などに照らされて、まばらに映る木々などの影の意。多く梅の花や梅の木についていう。

 

 

 

上下天光 (しょうかてんこう)

空と水とが一つになって、明るく輝くさま。▽「上下」は天地、空と水をいう。「天光」は空一面に輝く日の光。ここではそれが水面にも映り輝き、天にも地にも光が満ちあふれたさまをいう。「上下」は「じょうげ」とも読む。

 

 

 

春愁秋思 ( しゅんしゅうしゅうし)

春の日にふと感じる物悲しさと、秋にふと感じる寂しい思い。よい気候のときに、なんとなく気がふさぐこと。また、いつも心のどこかに悲しみや悩みがあること。

 

 

 

晴好雨奇 ( せいこううき)

晴天でも雨天でもすばらしい景色のこと。自然の眺めが晴天には美しく、一方、雨が降ったら降ったですばらしいこと。

↑「雨が降ったら降ったですばらしい」、「天気が”良い”」といわれる晴れのときだけではなく、雨やくもりのときにみた美しい景色が、ぱらぱらと脳裏に一斉に現れる。

 

 

 

煙波縹渺 (えんぱひょうびょう)

水面がもやなどで遠くまで煙って、空と水面の境界がぼんやりしてはっきりとしないさま。

ウィスコンシンのデビットとジャンの家の前にある小さな湖でカヤックをしたこと、あの静謐で幻想的な時間。

 

 

と、ここまで書いて追記したいのが、自然に対してその恩恵ばかり体験してきた私が、そしてむしろ自然を害することに加担してきた自分が、「自然」という言葉で一括りにしてそれを語ることはできないということだ。私は自然のことをあまりにも知らない (知るという単語が適切かはわからないけれど)。「自然の全てを見る/知る」だなんて不可能、それはそう。でも私はあまりにも知らなすぎるし知ろうとしてこなかった。でも一方で、自然の織り出す様々な情景を少なからず目の前にしてきたし、そのような私の記憶が紛れもなく存在するということも事実だ。その両方を、ここに記したい。

 

②に続く