norika_blue

1999年生まれ

"3月の日記"

1番初めのの記事に “3月の日記” と書いたものを、ここに貼る。日記として書いたものだから、文章がばらばら笑

 

1つ前の記事 : https://norikaeden.hatenadiary.com/entry/hello

 

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自分はなぜインスタグラムやそのストーリーに写真を上げるのだろう?ツイッターに文を書いたりリツイートをするのだろう?

 

他人関係なくただ自分のアンデンティの確立?でもそしたらカメラロールに入っているだけじゃダメなのか?メモ機能に入っているだけじゃだめなのか?ブログじゃなくて日記じゃダメなのか?他人に自分のある印象を与えたいから?自分はこういう人ですよということを証明したいから?自慢したいから? それともSNSに限らずただ単に誰かに聞いてほしくなったから?感情が溢れて誰かにどうしても伝えたくなったから?面白くてみんなにもみてほしいと思ったから?そもそも、なんで “誰かに聞いてほしい” “人に見せたい” と思うのかな?自分が自分のその感情を知っていればそれじゃダメなのかな?シェアするのはただ単に自己満足?他の人がしているから何も考えずにシェアしているのか?意見を発するため?でもその意見を発するのはなんで?それは自分のため?人のため?世界のため?それとも世界のためとは言いつつ本当はそうやって意見を話す自分が好きだから?

 

きっと、シェアするものによって理由なんて違うし、時には複数の理由で、時には1つの明確な理由で、その理由をわざわざ大きく意識してシェアする人なんてほとんどいないだろうけれど、気づかぬうちに心の奥底で思っていることがあって、そうでなければ何も考えずにただ他の人がやってるからという理由だけでやっているのであって、それでも別によくて、どの理由が優でどの理由が劣だなんてそんなものはなくて、ただものによっては行き過ぎると自分の精神の健康を害することになるからそこはきちんと見極めて、他人に見てもらわなくても納得してもらわなくても、理解してもらわなくても、自分で満足できる部分というのをもつのも “ある程度” 重要であって

 

例えば上記のこの理由のうち “ 世界のためとは言いつつほんとうはそうやって意見を話す自分が好きだから?” というのも、そうやって勇気を出して話した自分を誇りに思うのは悪いことなんかじゃ全然ないし、自分の行動が理由で自分を好きになれるのはむしろ素敵なことのように思える。

 

そもそもSNSに限らずどうしてわたしは、たくさんの人は自分の話をシェアするのか?


そして、シェアすることで、自分の奥底に眠っていた気持ちや考えが目覚めてきたり、シェアする前提で書くことが本気で自分に向き合える良い機会になったりすることもある。

 

「わたしは結局、自己完結した世界の中で自分を好きでいられるほど、強くないのだ」って山田詠美は言ってた。

 

“Happiness is real when it’s shared” という言葉に対しての感覚が自分の中に芽生えたのはこの3週間の間の出来事であったし (これについてはまた書きたいな)


きっと根本的に人間はシェアせずにはいられないものなのか?人間は、と主語を大きくして話していいものかもわからないが。

 

でもツイッターやインスタグラムなどのSNSには、ほとんどが別に特定の人に向けられたわけでもない、もちろん同じ “出来事の共有”, “感情の共有” でも、人との会話とは全然違うところもあって👨‍💻

 

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と、2018年3月の日記は文章の途中で終わっていた。今となっては違う意見のところもあるけど。