写真:movie “レディバード” by Greta Gerwig
Today’s music: Adore by Christopher Gordon
今年の2月か3月に、ウェブサイトという名目でブログを書いていた。
書いているときは本当にエナジェディックだった。読んでくれている人なんてほんと少数だろう、いるかもわからない、でも5人が読んでくれているだけで本当に嬉しかった。
携帯のメモ機能ではなく、なぜブログにするのか…?自分の中にしまっておいて、自分にとって大切な人にだけ知ってもらうだけではダメなのか…?携帯の写真フォルダーにあるだけじゃなくて、なぜインスタグラムにのせるのか?なぜツイッターに書くのか??
この私に対する私からの疑問は、ブログを書く前からずっとあった。自分はなぜ○○をしているのか?ということが一度頭の中に浮かぶと、ある程度の自分の納得がいくものができるようになるまで、そのことばかり考えてしまう。
2月にブログを書いたときは、大きく分けると2つ理由があった。
1つは、書いた内容が書いた内容だったのもあって、1人1人が変われば世界はもっと優しくなるから、 “その為に”「他の人にも伝えたい」とか、「他の人にも知ってほしい」とかそういう理由。
2つめは、自分の映画や本や音楽に対する超大きすぎる愛を発散する場所が欲しかった、インターネットの海に放り込みたかった、という理由。
でも、書けば書くうち本当にそれがわたしがここうやってインターネットに載せる理由か…?と疑問に思っていた。
3月の私の日記をあさったら、こう書いてた。そのまま載せる。文章がぐっちゃぐちゃだ笑
2018年3月より: https://norikaeden.hatenadiary.com/entry/diaryfrommarch2018
親しい人に見せたい自分の一部分、ではなく、インターネットでその一部分を不特定多数に見せたいと思う理由は、この日記にも書いたように私には大量にあった。
「何も言わずにおばあちゃんになりたくない」とは色んな意味で今も思う。
でも言葉は “なにかを伝える” という手段としてだけではないのかもしれないと思ってきた。
たしかに “伝える”という部分は言葉が担う役目かもしれない。共感を得たり書き手と読み手をくっつけているように思われたり。
でもそもそも世界を同じようにみている人なんて1人もいない。「泣きたくなるほど青い空」と言われたとき思い浮かべる空はみんな違う。言葉とそれに対する感情や感覚が全て100パーセント一致する人なんていない。
言葉に “繋げる” という役割を全く求めていないわけじゃない。でも繋げるというのが「自分の感情や考えをそのまんまにその人の中に置こうとする」んじゃなくて「自分の感情や考えを(それ以上かもしれない)、自分の感覚で言葉という記号とつなげてそれを放出し、それが他の人の細胞のどこかとクリックするかもしれないししないかもしれない」という感覚になるときもあるというだけ。逆に前者のような意図を言葉に対して持ってるときだってある。
わたしは言葉に何度も自分の魂をひっくり返された。本や詩を読んでいてナイフで心臓を刺されたような衝撃をうけたり、歩いてても食事しててもその言葉が頭をどうしても離れなかったり、思い返すだけで笑顔になったり。でもそれはその言葉を書いた人に “伝達したいこと”があってそれがわたしの中に置かれたというよりは、あるのはその言葉という記号と音がわたしの細胞にもたらしているその感覚だけ。
長く書いたけども…ハローはてなブログ。わたしが日記ではなくブログにした理由は記事によって様々だけど、わたしが使う言葉がもしわたしの何かを表すとしたらそれはわたしのほんの一部分でありその時のすべて。
使う言葉、感情、考え、行動、振る舞い、表情、何がその人をその人にするのか?それはきっとそれら全部で、それらのうちどれでもない。でも書くことはわたしを本当にエナジェディックでハッピーにしてくれる、That I only know.
2018 年 12月9日