norika_blue

1999年生まれ

アラブ首長国連邦 & 社会というone of the most 広義をもつ言葉 ever (at least for me)


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↑これiphoneで撮った。この3分後には空の色が完全に変わってた。

 

音楽: A Way With Words by Robert Plant

 

パート1 : 8/7 UAE アラブ首長国連邦

目を疑うくらい美しかった。果てしなく大きくて終わりのない砂漠が目の前に広がっていて、空が今までにみたことのない色をしていた。美しくて涙が出そうだった。これは場所に限らずだけど、今回の旅でも、一生忘れないであろう瞬間がたくさんあった。「旅のどこに私はこんなにも魅かれる?」と疑問だったとき、えいりんが「新しいひとびとに出会うこと」と言っていたのがずっと心に残ってる。今回もまたそうだった。 

 

アラブ首長国連邦の80パーセントの住民は外国人(外国籍をもつ人)。その中には低賃金で過酷な労働を強いられている出稼ぎ労働者の人たちがいる。ドバイなどで都市化がどんどん進んでいっている裏には、国内でも「奴隷」とみなされている人々の存在がある。その人の存在を一度知れば、それがどんな人であれどんな形であれ、自分の人生の、自分の行動の、自分の一部となっていく。(だからこそまずは知ろうとしよう。もちろん例えそれが決して会うことがない人でも。) (そしてもちろん、この問題はUAEに限ったことでは全然ないよな)

 

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パート2: 社会というone of the most 広義をもつ言葉 ever (at least for me) 

 

「人のために何かをつくる人間がいる。その人に直接会うわけでもなく、握手するわけでもない。でもその人のためにつくるんだ。相手のために何かをつくるのは、自分がこの世に存在することについて、すべての人々に感謝をあらわすということなんだ」というのはたくさんあるスティーブ・ジョブズの言葉のなかで私の一番の支柱、そして指標になってるものだ。

 

是枝裕和監督が、「地域共同体、企業共同体、家族共同体の帰属からの離脱が個人にとって不利益に働かない社会を『リベラル』であると考えてきた」と言っていたけれど、そういう意味で私はリベラルであると自分のことを思っているし、仲間やチーム意識というのは敵をつくったりだれかを排除するためにあるのではなくて、人と人がつながって何かに向かおうとすることそのものである。でもそのことはなぜかいとも簡単に忘られてしまう。


面と向かって会う人だけでなく、決して面と向かって会うことがないかもしれない人々同士が、誰かの生活のいち部分を、その人生のいち部分を、その人自身のいち部分をつくることができる。これは「社会」の希望でもある側面で、このことをまず私たちは決して忘れてはいけないと思う。

「社会」というのはとても広い言葉で、パワーが集まることは時に恐ろしいことにもなるのは本当で、攻撃や憎しみのためにそのパワーが使われた/使われているのも事実。それは心に留めておかないといけない。


でも、身体という境界線を持った人間が、別の脳を持った別の人間同士が、決して他者の感情をそのまま感じることもそのまま全て肩代わりすることもできないことを知りながらも、誰かを想い、考え、理解しようとすることができるというそのことこそが、そしてなにかを「共有」できるというそのことこそが、「社会」の根源であり力であり光であるのには変わりないんじゃないかな。自分の生活がたくさんの他者のおかげで成り立っていること、恩恵を常に受けていること、それは一生変わらない。そしてだからこそ、自立するということは自分が頼れるものを特定の1人や2人(保護者だったり)だけではなく、社会のあちこちに分散させるということであり、決して「一人だけで立つ」というわけではない。逆に、自立するとは自分が不特定多数の誰かの「いち頼り」になれることができるということでもある。それができるのが「社会」なんじゃないかな。


気づかない部分でも私たちはたくさん取捨選択をしてる。感情ははっきりと分類できるものではなく、個々によって異なるグラデーションであることはもう周知されているとおりだと思う。そして感情というのは決して理性とされているものの反対側にあるのではないことも、だ。「誰かのためになる」ことが自分にとって「嬉しい」、とか「誰かが幸せであることで自分にとっても幸せ」とか、結局は基盤に自分の感情と接点をもつ(接点を持たないことなんて逆にあるのだろうか?)。が、それは好いことだと私は思う。だって、それは私たちが一つの行動や事象を通して重なることができるということを表していることでもあるから。違う人間に共有できるものがあるということを表していることでもあるから。

 

認識と行動は切っても切り離せないものだとわたしは思うから、文章としてこれを書いた。それに、大学では具体案についてたくさん話すから、ここでは根本を振り返ろうと思った。人文学と社会科学にも、他の学術分野に明らかな境界線がないのと同じくらい、はっきりした境界線はないよね。ここまで読んでくれた人がいるなら、本当にありがとうございます。

 

p.s. あと、どこか別の場所に行くと、東京を違う目でみることができるよね。東京はやっぱり私にとってすごく特別な場所だからまたそれは長文書くかもしれない。