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1999年生まれ

Quotes and musings (29)

話の終わり / リディア・デイヴィス (パート3。255〜ラストまで)

訳 岸本佐知子 白水Uブックス

 


255

優しく穏やかな感じの人だと思った。いっしょに過ごしたら安らかな気持ちになれそうな気がした。それにきっと楽しいだろう。だが終わってみれば、それは楽しくもなく不快でもなく、ただ黙って過ぎ去るのを待つだけの経験だった。

(中略)

彼は控えめにではあったがあれこれと指示を出し、私はしだいに、どこか遠くで行われている機械操作を見ているような気がしはじめた。たくさんのガラスが介在している感じがした。ベッドの中でも眼鏡をかけて全てをありありと見ているような、顕微鏡でもって一部始終をつぶさに観察しているような、そしてそれを科学的に分析しているような。あるいはショウウィンドウの中、蛍光灯の明かりに皓々と照らされて交合する私たち自身を眺めているような。あるいはその男と私のあいだにー二つの体のすべての接点に、重ね合う肌と肌のあいだにーガラスが何枚もはさまっていて、あらゆることが嫌というほどくっきりと見えているのに何ひとつ感触がないような、あってもつるりとした冷たい感じしかしないような。

二つの体が境界線をなくして混ざり合うような、あの感覚もなかった。どの腕が彼のでどの腕が私のかちゃんとわかったし、脚も、肩も、そうだった。どれが誰の体かわからなくなって自分の腕にキスしてしまったり、口の前に来たものにとにかくキスしてしまうということもなかった。ほんの小さな動きがすぐに次なる動きを呼び覚ますこともなかった。無限に続きもしなかったし、自分の体と彼の体の奥へ奥へと、魂とはぐれてしまいそうなほど深く入っていくこともなく、意識は無情なまでにどこまでも覚めていた。終わったのにまだ続いていく感覚もなかった。

 

 

 

261

彼は今も私の中にいて、私の中の大きな部分を占めていた。その甘くみずみずしく香ばしい体が、丸ごとすっぽり私の中に納まっていた。私の家にやってきて、心を開いていろいろなことを語り合ったあの夜以降、彼はまた沈黙の向こう側に消えてしまった。彼の恐ろしい沈黙は彼をとても遠く、まるで外国にいるかのように遠くに感じさせた。彼が何を考えているのか想像してみようとしたが、無駄だった。彼の果てしない沈黙は空を覆い尽くす重苦しい雲のようだった。その重みに大地は押しつぶされ、地上の生き物はみな地面にはいつくばり、恐ろしい雲の圧迫に窒息しそうになりながら、それでもまだ待っていた。

 

 

 

272

厳しい規律というものに憧れがあり、何かが規律の一環だというだけでいいもののように思う私だったが、すぐに規律には飽きてしまった。

 

 

 

272

独りでいることには重力のような作用があって、私を漠然とした憂鬱に引き込んだ。物を考えようとしても考えられなかった。頭がつねに無知の状態にあるような気がした。頭の中に何も物が入っていないかのようだった。頭と体がつねに麻痺の状態にある感じがした。何か手段を思いついても、それがいちいち強すぎて行動に移せなかったし、何か行動を起こそうとすれば、それがいちいち無言の批判にあった。

 

 

 

281

いろいろな変化があり、時間が経つにつれ、さらにいろいろな変化があった。

 


↑私がなぜリディア・デイヴィスの文体が好きなのかが、ここに詰まっている気がする。

 


289

見ず知らずの他人が私の疲れを癒すために与えてくれたあの紅茶は、私の苦悩を知る由もない誰かによる単なる親切だったという以上に、ある種の儀式的行為だった。

儀式の必要性があったところに差し出されたことで、一杯の紅茶は儀式的行為になったのだ。それがカップの縁から紙のタブが垂れ下がった安物の苦い紅茶であってもかまわなかった。この話には、これまでにあまりにも多くの終わりがあり、そのどれもが何ひとつ終わらせず、逆に何かを、話に結実しない何かを続けていくばかりだったので、私には話を終わらせるための儀式が必要だったのだ。

 

 

 

岸本佐知子さんのあとがきより

293

感情もドラマも徹底的に排除された文章。内面の動きと日常の風景とが、完璧に等価なものとして描かれる。だがその強い抑制こそが、逆に書かれなかったものの存在を浮かび上がらせる。ひんやりとした語りの向こうに、生身の情念が透けて見える気がする。だから、ただひたすら日常の風物を淡々と写し取るような場面が、時に激しく胸を衝く。